江戸城の起源







1456年


 康正2年、京都の足利幕府の命をうけて武蔵の川越にいた上杉定正は、当時関東 公方足利成氏が幕府に離反して下総の古河に拠っているのに対抗するため、家臣 の太田資清の子、資長(のち入道して道灌)に江戸城を築くことを命じた。


1457年

 長禄元年、道灌は約1年間を費して、江戸城を築き、これに住んだのであるが、この時の江戸城の規模や形態については正確な史料はないが、その場合は今の皇居の旧本丸の地であって、その当時から更に2百年くらい前、この地に住まっていた豪族江戸氏の居館の跡であったといわれている。その頃いまの日比谷から丸の内一帯には、海水が湾入し、この辺に漁民が住んでおり風光明媚な海岸線であったであろうことは彼の有名な歌でもうかがえる。

(わが庵は松原つづき海近く ふじの高嶺を軒端にぞ見る)

1486年

 文明18年、道灌は主君の上杉定正に招かれて相模の糟屋館に在るとき、その定正のために暗殺され、江戸城は上杉の直接支配となって城代(曽我氏)が置かれた。1505年上杉定正の没後、永正2年、上杉氏が江戸城に住むようになってから、江戸城は上杉氏の居城となった。


1524年

 大永4年、小田原に本拠を持つ北条氏綱が、上杉氏を攻略してこの江戸城は北条氏のものとなり城代(遠山氏)を置いたのであるが、それから約70年余の間、江戸城は北条氏の東北辺の要害となった。


1590年

 天正18年7月、豊臣秀吉は小田原の北条氏を攻め亡ぼしたのであるが、これより2ヵ月半も前に江戸城は既に豊臣の軍に降伏し、開城していた。秀吉は小田原戦役の論功行賞として、徳川家康に北条の領地であった関東八ヶ国を与え江戸城を家康の居城とすることにした。天正18年8月、家康は関八州の大守として江戸城に入ったのであるが、家康が入城した当時の江戸城は、いまの旧本丸と、二の丸、三の丸の区域であって、構えは小さく、濠も狭かった。


1592年

 家康はそれでも入城してすぐには大規模な修築はせず応急の処置をとっただけであった。その翌々年即ち文禄元年になってはじめて西の丸の創建に着手し、その翌年これを完成した。いまの皇居の宮殿地がそれで、当時はこれを御隠居お城とか、または新丸と称えた。


1604年

 慶長9年、家康は全国の諸大名に巨石や材木の採取、あるいは運搬を命じ、また、神田の台地を崩して城の東南一帯の海岸や湿地を埋めた。今日の日比谷、銀座、日本橋、浜町などの主要な市街も、このとき造られたものが多い。





徳川歴代将軍

歴 代 将 軍 菩  提  寺 法    名 在                      職 就任 死亡   年
初代 ・ 家康 日光・東照宮 東照大権現 慶長 8年〜慶長10年(1603〜1605) 61歳 75歳 1616年
二代 ・ 秀忠 芝  ・増上寺 台徳院 慶長10年〜元和 9年(1605〜1623) 27歳 54歳 1632年
三代 ・ 家光 日光・東照宮 大猷院 元和 9年〜慶安 4年(1623〜1651) 19歳 47歳 1651年
四代 ・ 家綱 上野・寛永寺 巌有院 慶安 4年〜延宝 8年(1651〜1680) 11歳 40歳 1680年
五代 ・ 綱吉 上野・寛永寺 常憲院 延宝 8年〜宝永 6年(1680〜1709) 34歳 63歳 1709年
六代 ・ 家宣 芝  ・増上寺 文章院 宝永 6年〜正徳 2年(1709〜1713) 47歳 51歳 1712年
七代 ・ 家継 芝  ・増上寺 有章院 正徳 2年〜享保 元年(1713〜1716)  3歳  6歳 1716年
八代 ・ 吉宗 上野・寛永寺 有徳院 享保 元年〜延享 2年(1716〜1745) 34歳 69歳 1751年
九代 ・ 家重 芝  ・増上寺 惇信院 延享 2年〜宝暦10年(1745〜1760) 34歳 50歳 1761年
十代 ・ 家治 上野・寛永寺 凌明院 宝暦10年〜天明 7年(1760〜1787) 23歳 49歳 1786年
十一代・家斉 上野・寛永寺 文恭院 天明 7年〜天保 8年(1787〜1837) 14歳 69歳 1841年
十二代・家慶 芝  ・増上寺 慎徳院 天保 8年〜嘉永 6年(1837〜1853) 44歳 60歳 1853年
十三代・家定 上野・寛永寺 温恭院 嘉永 6年〜安政 5年(1853〜1858) 27歳 32歳 1858年
十四代・家茂 芝  ・増上寺 昭徳院 安政 5年〜慶應 2年(1858〜1866) 12歳 20歳 1866年
十五代・慶喜 谷中墓地   ― 慶應 2年〜慶應 3年(1866〜1867) 29歳 76歳 1813年





SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送